2014年1月31日金曜日

水野成夫社長(森喜朗邂逅)

 かなり強引に押し通る森。なんだかよくわからないがチャンスをものにする力というか、バイタリティを学ぶべきだと友人が感心していた。この人はユーモアを交えて話すところがある(それでこそ雄弁会)し、話半分で私はみてはいるが、楽しいサクセスストーリーだ。

http://www.nikkei.com/article/DGKDZO49243650W2A201C1BC8000/
森喜朗(7) 産経入社 「本田が4輪進出」特ダネ 日本工業新聞で企業取材
    2012/12/7付
(略ry)
水野成夫さんは当時、小林中さん、永野重雄さん、桜田武さんと並ぶ「財界四天王」と呼ばれた大物で、産経新聞社に乗り込んで経営再建に当たっていた。

 千葉先生の紹介状を携えて私は国策パルプ社長室に水野さんを訪ねた。ビルの中の社長室に日本間があり、真ん中には囲炉裏がしつらえてあって びっくりした。水野さんは「わかった。君がお国のために頑張っているのは感心なことだ。産経の担当者に話しておこう」と言ってくれた。

 これで入社は決まったと思ったが、卒業が近づいても産経から連絡がない。おかしいなと思って問い合わせると「水野社長はそう言ったかもしれ ないが、うちは経営再建中で新人採用予定はない」と言われてカッときた。思わず「天下の水野成夫がうそをつくとは何だ」とかみ付いた。

 しばらくして「採用試験をやるから受けろ」と連絡があった。私は「試験は受けない」と言い張ったが、「試験を受けないと採用しない」と言う。試験では白紙の答案を出し、最後に「天下の水野社長は前途有為な青年をつぶしてはならない」と書き加えた
(略ry)
 一言で言えば、図々しいとなるかもしれないが単純におもしろいじゃないか。 やはり何か持ってると印象を受けるし、森らしい。
 最後の賭けにも似た白紙には、感心する。中途半端に答えるより難しいな。「サメの脳みそ、ノミの心臓」と評されたがそうは思えない。図太い。
 関係ないがやはり、ここでも財界四天王はこの並びである。関係ないついでに雄弁会の人脈は早稲田だけでなく、別の東京の大学も雄弁部で関わりがあるらしい。全く関係のない世界であるため参考になった。討論や演説など何だか想像もつかない活動だが政治家などに向いてる部活動であるなと思いました。

水野成夫社長(麻生太郎邂逅)

  はじめは、羨ましいと思う人がいるかもしれないがよくよく考えると大変だなと。

山本 泰夫 『加藤芳郎のまっぴら人生 愛蔵版 (産経新聞社の本) [単行本]』 産経新聞出版 (2006/11/15) p.225
 麻生太郎氏 当時の水野成夫社長が、おやじと仲良くて、試験を受けました。でも、アメリカでスタンフォード大の試験にも受かって。いったん帰国して、一日も出社せずに休職願を持って水野さんを訪ねたんです。そうしたら「すぐ休職なんてカッコ悪いから。帰ってきたら入社させてやる」なんて。
アメリカの大学を卒業する直前に、仕送りを切られ今度はイギリスに行けと振り回される麻生の心境を考えるとなんともいえなくなってくる。苦労である。
 そんな中の優しい一声であるが、次の記事と考えるとなんだか余計におもしろい気がする。森と麻生は対照的だ。なんだかぶぶ漬けの話を思い出してしまった。

2014年1月30日木曜日

辻政信失踪事件(森喜朗邂逅)

昭和33年(1958年)の話。
  • 辻政信
第25-28回衆議院議員総選挙
1952-1958年 当選 

参議院議員通常選挙
1959年 3位当選 


http://www.nikkei.com/article/DGKDZO49204470V01C12A2BC8000/
森喜朗(6) 雄弁会 先輩の指導、選挙応援 辻政信氏「君は政治家向き」

2012/12/6付
(略ry)
私の父は辻さんを応援していた。辻さんは陸軍のエリート参謀だった人で、当時は自民党反主流派の急先鋒(せんぽう)だった。
 私は議員会館で辻さんとばったり顔を合わせた。「根上町の森喜朗です。早稲田におります」とあいさつすると、辻さんは「おう、君が森町長の 息子か。君はなかなか政治家向きだね。大いに頑張りたまえ」と言ってポンと肩をたたいてくださった。辻さんが東南アジアで忽然(こつぜん)と姿を消したの はその2年後である。
(元首相)

  • 祖父
森喜平(1875年 - 1969年2月22日)
石川県能美郡根上町長
1917年05月08日 - 1927年11月30日 1928年04月05日 - 1945年10月19日
森茂喜(1910年3月27日 - 1989年11月19日)
石川県能美郡根上町長
1953年07月10日 - 1989年04月01日

森喜朗氏の息子(森祐喜)は亡くなったが、石川県議であった事を考えると四代政治家である。

かなり、微笑ましいエピソードが多い『森喜朗 私の履歴書』。わけのわからない組み合わせではあるが、これが歴史かと思わせられる。

人を見る目があるというか総理大臣までなることを考えるとニヤニヤしてしまうエピソードだ。

椎名裁定(女キングメーカー)


佐藤の動きが気になった。どちらかと言うと主軸ではない気がする。こういう繋がりもありますよというかダメ押しというか。あくまでついでに考えてみる。

政界六〇年松野頼三
http://www.alter-magazine.jp/index.php?%EF%BD%9E%EF%BC%97%E5%9B%9E%E5%BF%8C%E3%81%AE%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%A0%BC%E4%B8%89%E3%80%80%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E9%A6%96%E7%9B%B8%E5%83%8F%EF%BD%9E
一人ひとりが声をあげて平和を創る メールマガジン「オルタ」
~7回忌の松野頼三 言行録から見る歴代首相像~
落穂拾記(10)
7回忌の松野頼三 言行録から見る歴代首相像                    羽原 清雅

(略ry)
●三木武夫 「(椎名裁定について)あのときの4人(福田、大平、三木、中曽
根)は露骨だった。佐藤はしかし知っていましたね。私は佐藤に『どうも噂では
三木という話があるけれど、三木じゃひどいよ、福田じゃなければ』と言ったら、
『まあ、松野、任せたらもう触るな。任せたのにいちいち言うと男らしくないぞ。
どうなってもいいじゃないか。しょうがない、任せたんだから』と言った。・・・
佐藤は前の日に三木だということを知っていましたね。」
      
  「裁定後、椎名は僕に言った。『(首班が)福田なら田中角栄に近い大平が敵
意を持つ。中曽根はまだ早いし力もない。三木は派閥は小さいが、政治経験が豊
富で3人を包括できる。4人をまとめるには、これ以外にない』とね。結局、消
去法で三木になったわけだ。」
(略ry)
佐藤は椎名と話をしたのだろうか。少なくとも前の日に知っていたということはある程度話して決めていたんだろうとは思うが。それがあって、岩見のこの記事が関係があるのかなと思った。



http://mainichi.jp/opinion/news/20120901ddm002070036000c.html

近聞遠見:女キングメーカー?=岩見隆夫


毎日新聞 2012年09月01日 東京朝刊
 民主、自民両党の党首選が本格化してきた。いずれも票の争いだから、結果ははっきりするが、戦後政争史のなかには、ミステリアスな場面がいくつかある。
 歴史的な名裁きといわれる
 <椎名裁定>
 がその一つだった。田中角栄首相が金権批判で失脚したあとの後継選びだ。
 1974年12月1日朝の自民党本部。後継候補の4人、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘がそろった前で、椎名悦三郎副総裁は、
 「三木武夫君がもっとも適任……」
 と裁定文を読み上げ、党内が騒然となるなか、あれよあれよという間に<三木新総裁>で落着したのだ。
 しかし、ただ、あれよあれよだったのか。真相を知るはずの証人が次々に世を去り、先日、ついに三木夫人の睦子が95歳で死去した。真相を語らないままに。
 裁定前後にはさまざまなこと、たとえば椎名や保利茂らによる<長老暫定政権>の画策などがあった。睦子も、
 <椎名さんの腹づもりは、その後の行動から推して、三木に決めようとすると、党内はてんやわんやになっ て収拾がつかない。そうすると、暫定政権はわしがやらざるをえない、という読みで事が始まったのだと、私は思います>(「信なくば立たず−夫・三木武夫と の五十年」講談社・89年刊)
 と椎名の野心に触れているが、もめることなく三木で収まった内情の記述はない。
 だが、新証言者が現れる。三木夫妻の側近だった国弘正雄元参院議員。国弘は著書「操守(そうしゅ)ある保守政治家 三木武夫」(たちばな出版・05年刊)のなかで、次のことを明かした。
 裁定2日前の11月29日、国弘が東京・南平台の三木邸で睦子と雑談するうち、睦子が、
 「いまパパが官房長官を誰にしようかと考えていること、だれも知らないのかしら」
 ともらしたという。のちに国弘が、
 「あの時、もうどこかの筋でちゃんと(三木指名が)分かっているんだなと思った。佐藤栄作さんの筋ではないかと臆測しましたが」
 と確かめると、睦子は、
 「そうじゃなくて、雰囲気で分かったのよ」
 と否定した−−。
 初めて佐藤の名前が登場する。佐藤と三木はもともとソリが合わなかった。池田勇人退陣(64年)のあと、当時の三木幹事長は佐藤後継で動くが、佐藤が総裁3選(68年)を狙うと、三木外相が阻止に立つ。佐藤が、この時、
 「考えを異にする人を外相にしたのは、私の不明だった」
 と切り捨てたのは有名な話だ。
 ところで、椎名裁定の1日夕方、佐藤はひょっこり次男、信二を伴い、東京・目白の田中角栄邸を訪れた。<三木>で流れができたとみてとり、唯一つぶすパワーのある田中を口説こうとしたらしい、とメディアは報じ、永田町からは、
http://mainichi.jp/opinion/news/20120901ddm002070036000c2.html
「これで決まりだ」
 という声が漏れた。
 なぜ佐藤が。縁戚関係がある。睦子は森コンツェルンの創始者、森矗昶(のぶてる)の次女。長女は安西正夫元昭和電工社長夫人。正夫の兄、安西浩元東京ガス会長の長女、和子が佐藤の次男、信二元運輸相の夫人だ。三木、佐藤両家は政界で反目していても、血脈で つながっていた。あのころ、
 「最後は女傑が動き、意に沿って佐藤がダメ押ししたのではないか」
 という声を聞いたが、確証はない。もしそうだとすれば、睦子はただ一人の女キングメーカーになる。(敬称略)=毎週土曜日掲載
==============
 岩見隆夫ホームページ http://mainichi.jp/opinion/column/iwami/
安西と森の関係は深い。

神 一行  『閨閥―特権階級の盛衰の系譜 (角川文庫) [文庫] 』角川書店; 改訂新版 (2002/03) pp.332-333
豪華絢爛たる最高閨閥を誇る安西家であるが、多くの名門家系がそうであったように、 この安西家とて三代前までさかのぼれば、ただの庶民にすぎなかった。
そして、この家族を語るときは必ず、戦前の新興財閥であった“森コンツェルン”との関係を抜きには語れない。
そもそも安西家と森家の祖先は千葉県興津(現勝浦市)の在で、道路一本へだてた隣同士だった。
後に安西正夫と森矗昶の長女満江が結婚し親族となるわけだが、その祖父にあたる安西八郎兵衛、森為吉は、勝浦の貧しい一漁師にすぎなかった。
明治の中頃この地方の漁師たちは海岸に流れつく海草の一種カジメを拾い集めるのが割りのいい仕事だった。
焼いてヨードと塩化カリをとるのだ。
日清、日露の両戦争でその需要が飛躍的に伸びた。
ヨードは傷病兵の治療に使われ塩化カリは火薬に必要だったからである。
これに目をつけた安西、森の両家は群小の“拾い屋”をまとめて総房水産株式会社を興した。
社長に森為吉、専務に安西直一、常務に森矗昶という布陣。
いわば両家の関係は隣同士の関係から共同事業主としての関係へと運命共同体として結びつくのだ。
これらをまとめて図にしてみる。
相関図
作成使用ツール:http://pipeo.jp/


財界四天王(佐藤政権末期-三木政権末期)


財界四天王といえば、吉田、池田内閣のイメージがある。

政権
吉田茂(途中片山芦田挟む)
鳩山一郎
岸信介
池田隼人
佐藤栄作
田中角栄
三木武夫

伊藤 昌哉『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)
佐藤政権末期から三木政権末期までの時期

著者の伊藤 昌哉氏は、池田隼人の首席秘書官。浅沼稲次郎追悼演説の草稿を執筆。
大福密約などでも暗躍。金光教の熱心な信者で、独特の鋭い考察をすることが特徴。 抜群の政局に対する勘を持っていた。


小林 中

    (1899年2月17日 – 1981年10月28日)



水野 成夫

    (1899年11月13日 - 1972年5月4日)



永野 重雄

    (1900年7月15日 - 1984年5月4日)



櫻田 武

   (1904年3月17日 - 1985年4月29日)



今里 広記

     (1908年11月27日 - 1985年5月30日)

  • 小林 中

記述がない。やはりこの人は別格か。


第66代 内閣総理大臣三木武夫

    任期     1974年12月9日 - 1976年12月24日


  • 水野 成夫

三木内閣前にも記述がない、1972年5月4日に死去なので三木政権下では死去している。

椎名悦三郎に近い。

永野の三木政権下の動きをみてみる。

  • 永野 重雄

岸、福田に近い。

基本的には、福田の意見を大平に伝える使者。

三木政権下における大福の接近における動き。
まったくもって、宏池会の中の連携というか連絡というものがちゃんとなっていないことがわかる。鈴木は基本的には角栄の意向を重視し、それが伊藤と大平の邪魔をする印象を受ける。大平は角栄に対抗するところはあるが、鈍感な部分がみえるところもある。伊藤は必死に角栄の影響を取り除こうとしている。


伊藤 昌哉  『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.285-286

     九月二十一日、私は大平と会って、「十一月十五日の公示、十二月五日の投票」の想定を述べた。大平も心中愕然としたらしい。「解散後に三木退陣を実現するしかない」と私は

    主張した。十月の党大会は事実上無意味となったのだ。大平も、「今里広記もその考えだ、『党大会で騒ぐのは良策ではない』という考え方だ」

    といった。私はこれで仕事が終わったと思うほどの思いになった。事実、これが今後の政局のいっさいを決めた。

    それから三日ほどたった。国会で三木首相の所信表明が行われた日のことだった。私は疲れたし、金子先生のすすめもあって休養のため家で寝ていると、電話がかかってきた。家内が出たら、ある若手の財界人からであった。

    「大福提携にあなたが動いているときいた。提携が本物であれば永野重雄氏と共に自分が仲に立ちたい」、「あなたは大平の ところへ帰ったのか」

    という。私は、

    「いや、ただ大平の家庭教師のようなことをしているだけだ」

    というと、その財界人は、

    「鈴木善幸氏と会ってよく聞いてみる。会ったあとまた連絡しよう」

    といって電話を切った。

    四日後の九月二十八日、再びこの財界人から電話があった。

    「きのう鈴木と会った。福田の方の考えは福田派と宏池会を一本にまとめるつもりだが、宏池会は福田を担ぐつもりはない、大平内閣実現だった。鈴木はよく考えている。あなたは大平とよく話しているのだろうか、福田と大平派のミゾはよく判った。私はこれで手をひく」

      といった。この実業家の判断は極めてはっきりしていた。鈴木善幸は福田内閣など夢にも考えてはいないのだ。私はこの財界人にお礼をいいたいぐらいであっ た。私は鈴木には福田との関係を報告しなかったし、大平もまたいっさい、いわなかったのだ。「鈴木は何も知らぬまま、ここまで事態は進行している」、この ことが実によく判った。

大福提携にある若手の財界人を使って動いている様子。

この人物が誰だろうか気にはなる。

田中角栄が語ったとされる内容を田中に近い筋の証言として角福戦争、田中総理実現前の出来事。



伊藤 昌哉  『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) p.195

    佐藤の死後、福田は手をかえ品をかえておれのところへ連絡者をよこした。これらの連絡は全部、福田に近い人物だった。財界では永野重雄(日商会頭)、堀田庄三(住友銀行会長)であった。これらの人の考えは、福田総理、田中総裁、大平副総裁であった」

    「財界がいくら推しても福田には絶対、政権をとらせない、『これだけやっても駄目か』と、福田が秋雨の中で呆然と立ち、男泣きに泣く、その姿をおれは見たいのだ」

完全に福田の使者である。岸の影響もあるが財界は、主として福田を推している。田中角栄という人は、財界との関係が薄いというイメージで語られる事が多いが河野一郎のイメージとかぶるが、後述の今里とは近い。

  • 櫻田 武

宏池会に近い。助言を度々伊藤や大平にする程度。
前尾と大平の争いを心配しての発言をみてみる。



伊藤 昌哉  『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) p.22

    池田の親友だった財界の桜田武(日経連代表常任理事)は当時私を呼んで実情をただした。

    「巷間いろいろうわさがあるが、実際のところどうなんだ?」

    「私は割れないと思います。前尾を中心にした集団指導のような形で進んで行くことになるでしょう」

    「宏池会の人々は、おとなしいというか、行儀がいいというか、要するに人柄がいいのだ。その人々が四、五十人固まって、ビクともしない、ということがこれから大切になる」

     と桜田は言った。
宏池会のアドバイザーみたいな印象しかうけない。池田とは特別仲が良かったのだろうか。親友だったと書かれている。
基本的には、高度経済成長の池田という総理の評価は上がっていい。
吉田の後継として、佐藤より池田の方が優秀であるし、仕事をしている。
  • 今里 広記

この前に田中清玄とは揉めているのだろうか。田中角栄とは近い模様。

椎名裁定前の椎名暫定政権中の話。



伊藤 昌哉  『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.143-144

    この日私はある用事で日本精工の今里広記社長と会うことになっていた。話が政局に及んだ。私は今里が田中首相と親しい仲であることを百も承知で、こういった。

    「田中はすべての人を釣ってきた、次期政権で大平を釣り、幹事長、蔵相のポストで中曾根を引きつけ、今、暫定総裁で椎名を釣っている」

    「それじゃ後生が悪いだろう」

    今里はそういった。私は、

    「いちばん大切なことは保守党を割らないことだ」

    というと、

    「割れたらどうなるか」

    と聞き返す。私は即座に、

    「割れたもの同士で連立内閣でしょう」

    というと今里は目を丸くしてびっくりした。

伊藤のこの一言が影響したとも言わないが事実、三木は党内のバランスの中実現した総理。

つまり、田中を除いた大平、福田という2大巨頭では党が割れる。党が割れた場合、下手をすれば、社会党に政権がまわる可能性もある。それに加え、自民党という巨大与党が割れさえしなければ、必ず政権はまわってくるので安定のためにも福田、大平の選択肢はない。

中曾根はまだはやい。

そうなると野党と繋がりかねない三木の暫定という結果が生まれる。



伊藤 昌哉  『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.143-144

    十一月二十一日、前回の行きがかりから、今里と今夜は夕食を共にすることになっていた。約束の時間を一時間以上遅れて、やっと今里がやってきた、「何かあったな」と思った。雑談の途中で、

    「大平の可能性はなくなった」

     と今里は何気なく話した。今里は私と大平との関係を知っているはずなので「どういうことかな」と思った。「立ち入って聞くのは失礼だから」と私はそのまま帰った。あとで判ったが、椎名はこの時、財界人と会っていた。その中に今里も交じっていたのではなかろうか。

椎名に近い財界人となると水野だが水野は亡くなっている。誰だろう。

清和会:福田赳夫 永野 

交友クラブ:椎名悦三郎 水野(亡)

宏池会:大平正芳 桜田 

木曜クラブ:田中角栄 今里 

財界四天王(別称:コバチュウグループ、吉田四天王)


  • 小林中(富国生命保険相互会社元社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油元社長)「影の財界総理」「天下の素浪人」「コバチュー」
  • 水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)「財界のマスコミ対策のチャンピオン」「マスコミ三冠王」「財界の送ったエース」
  • 永野重雄(日本商工会議所元会長、富士製鐵元社長)「財界フェニックス」
  • 櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)「ミスター日経連」
  • 菅礼之助(元藤田組会長、元東京電力会長、元経済団体連合会(現日本経済団体連合会)評議会議長)「ラマ僧」

    お約束通りの四天王なのに5人いる、三鬼陽之助によって命名された当時の財界実力者。
    初期は、菅だったが三鬼の取材の過程で櫻田と入れ替わったことが長瀬達郎(菅裸馬の孫)の『俳人菅裸馬』に載っている。

    長瀬 達郎 角川学芸出版 (編集) 『俳人菅裸馬 [単行本]』角川書店; 単行本版 (2011/7/30)p.179
    ただ筆者の記憶では、三鬼陽之助氏自身が菅礼之助を四天王の一人として書いた雑誌を確かに目にしたことがある。三鬼氏がその著書を出した当時、同氏はすでに八十歳。その長い経験の中で、何度か変遷があってもおかしくない。

    更に詳しい実態として、政界最後のフィクサーとも呼ばれた福本邦雄が記した『表舞台 裏舞台―福本邦雄回顧録』がある。

    福本 邦雄『 表舞台 裏舞台──福本邦雄回顧録 [単行本] 』 講談社 (2007/4/10) p.266    

    福本 それについては、僕が『中央公論』に「財界人の思想と行動」というのを、二回ぐらい書いていますから、大体その通りです。「コバチュウ・グ ループ」というのがいて、それが財界と政界との間を仕切っていた。一番初めは、吉田(茂)さんと、宮島(清次郎)さんとの関係から出来たのかな。

    ——日清紡ですね。

    福 本 宮島さんが退いて、「コバチュウ」(小林中)になったのかな。「コバチュウ」が、なぜあのグループの筆頭になったかと言うと、当時、彼は富国生命社長 から開銀総裁になったわけですから、復興資金を扱っていた。それが、一つの力の源泉だったのではないか。それで、「コバチュウ」が大将で、副将に水野(成 夫)がいて、あと永野重雄がいて、桜田武、今里(広記)がいた。見習士官が五島昇、小坂徳三郎、鹿内信隆という連中ですね。それで、財界と政界の間を取り 結んで、その代わり、国家的プロジェクトに対する人事は、この連中が完全に握っていた。例えば、国家公安委員、NHKの経営委員、電電公社の経営委員(の 人事)は、この連中が握っていた。

    下記に政界へコミットした財界四天王(別称:コバチュウグループ、吉田四天王)について詳しく実態を述べる。
    『田中清玄自伝』においても今里は、吉田四天王の一人という記述がある。

    田中 清玄 『 田中清玄自伝 [ハードカバー] 』文藝春秋 (1993/09)p.246
    今里はその後死んだが、俺が財界そのものを信用しない理由はそれだ。それが吉田四天王の一人だよ。自分のことだけだ。


    吉田茂(外交官、外務大臣(第73・74・75・78・79代)、貴族院議員(勅選)、内閣総理大臣(第45・48・49・50・51代)、 第一復員大臣(第2代)、 第二復員大臣(第2代)、農林水産大臣(第5代)、衆議院議員(当選7回)、皇學館大学総長(初代)、学校法人二松学舎舎長(第5代))

    宮島清次郎(元日清紡績社長、会長、元日本工業倶楽部理事長)
  • 大将

    小林中(富国生命保険相互会社元社長、日本開発銀行初代総裁、アラビア石油元社長)「影の財界総理」「天下の素浪人」「コバチュー」
  • 副将

    水野成夫(経済同友会元幹事、産経新聞元社長、フジテレビ元社長)「財界のマスコミ対策のチャンピオン」「マスコミ三冠王」「財界の送ったエース」

    永野重雄(日本商工会議所元会長、富士製鐵元社長)「財界フェニックス」

    櫻田武(日経連元会長、日清紡績元社長)「ミスター日経連」

    今里広記(日本金属産業社長、日本精工元社長)「財界官房長官」「財界幹事長」中山素平と「知恵の中山、行動の今里」
  • 見習士官

    五島昇(東京急行電鉄社長、会長、日本商工会議所会頭)「ビッグボーイ」

    小坂徳三郎(信越化学工業社長、会長、信濃毎日新聞社長、衆議院議員、運輸大臣(53代))大平、中曽根と「大中小」安倍、竹下と「安竹小」

    鹿内信隆(フジサンケイグループ会議議長)「ハイジャッカー」

2014年1月29日水曜日

山崎首班工作事件(幻の三木内閣)

1948年(昭和23年)3月10日-10月15日
芦田内閣

芦田内閣末期の事


國弘 正雄 『操守ある保守政治家 三木武夫 [単行本]』たちばな出版 (2005/11)  p.47
マッカーサーが三木さんに後継総理になるように求めたことがある。片山哲内閣で通信大臣を務めた後、国民協同党の中央委員長をやっていた時にマッカーサーに呼 ばれ「三木、今度はお前がやれ」と言われたという。この話は三木さんから何度も聞いた。三木さんは「アメリカにとって傷がつきますよ」と答えたという。
山崎猛を首班にしようとするが失敗。
山崎首班工作事件のことである。

北 康利 『白洲次郎 占領を背負った男 下 (講談社文庫) [文庫] 』講談社 (2008/12/13) p.57
実はこのとき、民政局からアプローチを受けていたのは山崎だけではなかった。当時の国民協同党の若き党首・三木武夫(後の首相)に対しても、ケーディスは秋 波を送っていたのである。”小党の党首にすぎないから”ということで三木は断ったが、ケーディスは吉田以外なら誰でもよかったに違いない。

山崎猛なら、衆議院議長経験者の首相。

三木武夫なら、史上最年少の首相。

バルカン三木の名前の通り、この若さで派閥の領袖とは恐るべし。
http://showa.mainichi.jp/news/1947/03/post-0c5e.html
毎日新聞社
昭和毎日
昭和のニュース

1947年03月08日
協同民主党と国民党が合同して中道主義政党、国民協同党が結成された。修正資本主義を掲げ、協同主義による日本経済の再建をめざした。書記長は三木武夫氏。発足当初は衆参両院で78議席を確保し、自由党、進歩党、社会党に続く第4党だった。片山哲内閣に、三木武夫氏が逓信大臣、笹森順造氏が国務大臣として入閣。しかし、1949年1月の総選挙で当選者は14人と激減。翌年、民主党の一部などと合同し国民民主党となった。