財界四天王といえば、吉田、池田内閣のイメージがある。
政権
吉田茂(途中片山芦田挟む)
鳩山一郎
岸信介
池田隼人
佐藤栄作
田中角栄
三木武夫
伊藤 昌哉『
自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』
佐藤政権末期から三木政権末期までの時期
著者の伊藤 昌哉氏は、池田隼人の首席秘書官。浅沼稲次郎追悼演説の草稿を執筆。
大福密約などでも暗躍。金光教の熱心な信者で、独特の鋭い考察をすることが特徴。 抜群の政局に対する勘を持っていた。
小林 中
(1899年2月17日 – 1981年10月28日)
水野 成夫
(1899年11月13日 - 1972年5月4日)
永野 重雄
(1900年7月15日 - 1984年5月4日)
櫻田 武
(1904年3月17日 - 1985年4月29日)
今里 広記
(1908年11月27日 - 1985年5月30日)
記述がない。やはりこの人は別格か。
第66代 内閣総理大臣三木武夫
任期 1974年12月9日 - 1976年12月24日
三木内閣前にも記述がない、
1972年5月4日に死去なので三木政権下では死去している。
椎名悦三郎に近い。
永野の三木政権下の動きをみてみる。
岸、福田に近い。
基本的には、福田の意見を大平に伝える使者。
三木政権下における大福の接近における動き。
まったくもって、宏池会の中の連携というか連絡というものがちゃんとなっていないことがわかる。鈴木は基本的には角栄の意向を重視し、それが伊藤と大平の邪魔をする印象を受ける。大平は角栄に対抗するところはあるが、鈍感な部分がみえるところもある。伊藤は必死に角栄の影響を取り除こうとしている。
伊藤 昌哉 『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.285-286
九月二十一日、私は大平と会って、「十一月十五日の公示、十二月五日の投票」の想定を述べた。大平も心中愕然としたらしい。「解散後に三木退陣を実現するしかない」と私は
主張した。十月の党大会は事実上無意味となったのだ。大平も、「今里広記もその考えだ、『党大会で騒ぐのは良策ではない』という考え方だ」
といった。私はこれで仕事が終わったと思うほどの思いになった。事実、これが今後の政局のいっさいを決めた。
それから三日ほどたった。国会で三木首相の所信表明が行われた日のことだった。私は疲れたし、金子先生のすすめもあって休養のため家で寝ていると、電話がかかってきた。家内が出たら、ある若手の財界人からであった。
「大福提携にあなたが動いているときいた。提携が本物であれば永野重雄氏と共に自分が仲に立ちたい」、「あなたは大平の ところへ帰ったのか」
という。私は、
「いや、ただ大平の家庭教師のようなことをしているだけだ」
というと、その財界人は、
「鈴木善幸氏と会ってよく聞いてみる。会ったあとまた連絡しよう」
といって電話を切った。
四日後の九月二十八日、再びこの財界人から電話があった。
「きのう鈴木と会った。福田の方の考えは福田派と宏池会を一本にまとめるつもりだが、宏池会は福田を担ぐつもりはない、大平内閣実現だった。鈴木はよく考えている。あなたは大平とよく話しているのだろうか、福田と大平派のミゾはよく判った。私はこれで手をひく」
といった。この実業家の判断は極めてはっきりしていた。鈴木善幸は福田内閣など夢にも考えてはいないのだ。私はこの財界人にお礼をいいたいぐらいであっ た。私は鈴木には福田との関係を報告しなかったし、大平もまたいっさい、いわなかったのだ。「鈴木は何も知らぬまま、ここまで事態は進行している」、この ことが実によく判った。
大福提携にある若手の財界人を使って動いている様子。
この人物が誰だろうか気にはなる。
田中角栄が語ったとされる内容を田中に近い筋の証言として角福戦争、田中総理実現前の出来事。
伊藤 昌哉 『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) p.195
佐藤の死後、福田は手をかえ品をかえておれのところへ連絡者をよこした。これらの連絡は全部、福田に近い人物だった。財界では永野重雄(日商会頭)、堀田庄三(住友銀行会長)であった。これらの人の考えは、福田総理、田中総裁、大平副総裁であった」
「財界がいくら推しても福田には絶対、政権をとらせない、『これだけやっても駄目か』と、福田が秋雨の中で呆然と立ち、男泣きに泣く、その姿をおれは見たいのだ」
完全に福田の使者である。岸の影響もあるが財界は、主として福田を推している。田中角栄という人は、財界との関係が薄いというイメージで語られる事が多いが河野一郎のイメージとかぶるが、後述の今里とは近い。
宏池会に近い。助言を度々伊藤や大平にする程度。
前尾と大平の争いを心配しての発言をみてみる。
伊藤 昌哉 『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) p.22
池田の親友だった財界の桜田武(日経連代表常任理事)は当時私を呼んで実情をただした。
「巷間いろいろうわさがあるが、実際のところどうなんだ?」
「私は割れないと思います。前尾を中心にした集団指導のような形で進んで行くことになるでしょう」
「宏池会の人々は、おとなしいというか、行儀がいいというか、要するに人柄がいいのだ。その人々が四、五十人固まって、ビクともしない、ということがこれから大切になる」
と桜田は言った。
宏池会のアドバイザーみたいな印象しかうけない。池田とは特別仲が良かったのだろうか。親友だったと書かれている。
基本的には、高度経済成長の池田という総理の評価は上がっていい。
吉田の後継として、佐藤より池田の方が優秀であるし、仕事をしている。
この前に田中清玄とは揉めているのだろうか。田中角栄とは近い模様。
椎名裁定前の椎名暫定政権中の話。
伊藤 昌哉 『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.143-144
この日私はある用事で日本精工の今里広記社長と会うことになっていた。話が政局に及んだ。私は今里が田中首相と親しい仲であることを百も承知で、こういった。
「田中はすべての人を釣ってきた、次期政権で大平を釣り、幹事長、蔵相のポストで中曾根を引きつけ、今、暫定総裁で椎名を釣っている」
「それじゃ後生が悪いだろう」
今里はそういった。私は、
「いちばん大切なことは保守党を割らないことだ」
というと、
「割れたらどうなるか」
と聞き返す。私は即座に、
「割れたもの同士で連立内閣でしょう」
というと今里は目を丸くしてびっくりした。
伊藤のこの一言が影響したとも言わないが事実、三木は党内のバランスの中実現した総理。
つまり、田中を除いた大平、福田という2大巨頭では党が割れる。党が割れた場合、下手をすれば、社会党に政権がまわる可能性もある。それに加え、自民党という巨大与党が割れさえしなければ、必ず政権はまわってくるので安定のためにも福田、大平の選択肢はない。
中曾根はまだはやい。
そうなると野党と繋がりかねない三木の暫定という結果が生まれる。
伊藤 昌哉 『自民党戦国史 (上) (朝日文庫)』 朝日新聞社 (1985/09) pp.143-144
十一月二十一日、前回の行きがかりから、今里と今夜は夕食を共にすることになっていた。約束の時間を一時間以上遅れて、やっと今里がやってきた、「何かあったな」と思った。雑談の途中で、
「大平の可能性はなくなった」
と今里は何気なく話した。今里は私と大平との関係を知っているはずなので「どういうことかな」と思った。「立ち入って聞くのは失礼だから」と私はそのまま帰った。あとで判ったが、椎名はこの時、財界人と会っていた。その中に今里も交じっていたのではなかろうか。
椎名に近い財界人となると水野だが水野は亡くなっている。誰だろう。
清和会:福田赳夫 永野
交友クラブ:椎名悦三郎 水野(亡)
宏池会:大平正芳 桜田
木曜クラブ:田中角栄 今里