2014年1月30日木曜日

椎名裁定(女キングメーカー)


佐藤の動きが気になった。どちらかと言うと主軸ではない気がする。こういう繋がりもありますよというかダメ押しというか。あくまでついでに考えてみる。

政界六〇年松野頼三
http://www.alter-magazine.jp/index.php?%EF%BD%9E%EF%BC%97%E5%9B%9E%E5%BF%8C%E3%81%AE%E6%9D%BE%E9%87%8E%E9%A0%BC%E4%B8%89%E3%80%80%E8%A8%80%E8%A1%8C%E9%8C%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E9%A6%96%E7%9B%B8%E5%83%8F%EF%BD%9E
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~7回忌の松野頼三 言行録から見る歴代首相像~
落穂拾記(10)
7回忌の松野頼三 言行録から見る歴代首相像                    羽原 清雅

(略ry)
●三木武夫 「(椎名裁定について)あのときの4人(福田、大平、三木、中曽
根)は露骨だった。佐藤はしかし知っていましたね。私は佐藤に『どうも噂では
三木という話があるけれど、三木じゃひどいよ、福田じゃなければ』と言ったら、
『まあ、松野、任せたらもう触るな。任せたのにいちいち言うと男らしくないぞ。
どうなってもいいじゃないか。しょうがない、任せたんだから』と言った。・・・
佐藤は前の日に三木だということを知っていましたね。」
      
  「裁定後、椎名は僕に言った。『(首班が)福田なら田中角栄に近い大平が敵
意を持つ。中曽根はまだ早いし力もない。三木は派閥は小さいが、政治経験が豊
富で3人を包括できる。4人をまとめるには、これ以外にない』とね。結局、消
去法で三木になったわけだ。」
(略ry)
佐藤は椎名と話をしたのだろうか。少なくとも前の日に知っていたということはある程度話して決めていたんだろうとは思うが。それがあって、岩見のこの記事が関係があるのかなと思った。



http://mainichi.jp/opinion/news/20120901ddm002070036000c.html

近聞遠見:女キングメーカー?=岩見隆夫


毎日新聞 2012年09月01日 東京朝刊
 民主、自民両党の党首選が本格化してきた。いずれも票の争いだから、結果ははっきりするが、戦後政争史のなかには、ミステリアスな場面がいくつかある。
 歴史的な名裁きといわれる
 <椎名裁定>
 がその一つだった。田中角栄首相が金権批判で失脚したあとの後継選びだ。
 1974年12月1日朝の自民党本部。後継候補の4人、福田赳夫、大平正芳、三木武夫、中曽根康弘がそろった前で、椎名悦三郎副総裁は、
 「三木武夫君がもっとも適任……」
 と裁定文を読み上げ、党内が騒然となるなか、あれよあれよという間に<三木新総裁>で落着したのだ。
 しかし、ただ、あれよあれよだったのか。真相を知るはずの証人が次々に世を去り、先日、ついに三木夫人の睦子が95歳で死去した。真相を語らないままに。
 裁定前後にはさまざまなこと、たとえば椎名や保利茂らによる<長老暫定政権>の画策などがあった。睦子も、
 <椎名さんの腹づもりは、その後の行動から推して、三木に決めようとすると、党内はてんやわんやになっ て収拾がつかない。そうすると、暫定政権はわしがやらざるをえない、という読みで事が始まったのだと、私は思います>(「信なくば立たず−夫・三木武夫と の五十年」講談社・89年刊)
 と椎名の野心に触れているが、もめることなく三木で収まった内情の記述はない。
 だが、新証言者が現れる。三木夫妻の側近だった国弘正雄元参院議員。国弘は著書「操守(そうしゅ)ある保守政治家 三木武夫」(たちばな出版・05年刊)のなかで、次のことを明かした。
 裁定2日前の11月29日、国弘が東京・南平台の三木邸で睦子と雑談するうち、睦子が、
 「いまパパが官房長官を誰にしようかと考えていること、だれも知らないのかしら」
 ともらしたという。のちに国弘が、
 「あの時、もうどこかの筋でちゃんと(三木指名が)分かっているんだなと思った。佐藤栄作さんの筋ではないかと臆測しましたが」
 と確かめると、睦子は、
 「そうじゃなくて、雰囲気で分かったのよ」
 と否定した−−。
 初めて佐藤の名前が登場する。佐藤と三木はもともとソリが合わなかった。池田勇人退陣(64年)のあと、当時の三木幹事長は佐藤後継で動くが、佐藤が総裁3選(68年)を狙うと、三木外相が阻止に立つ。佐藤が、この時、
 「考えを異にする人を外相にしたのは、私の不明だった」
 と切り捨てたのは有名な話だ。
 ところで、椎名裁定の1日夕方、佐藤はひょっこり次男、信二を伴い、東京・目白の田中角栄邸を訪れた。<三木>で流れができたとみてとり、唯一つぶすパワーのある田中を口説こうとしたらしい、とメディアは報じ、永田町からは、
http://mainichi.jp/opinion/news/20120901ddm002070036000c2.html
「これで決まりだ」
 という声が漏れた。
 なぜ佐藤が。縁戚関係がある。睦子は森コンツェルンの創始者、森矗昶(のぶてる)の次女。長女は安西正夫元昭和電工社長夫人。正夫の兄、安西浩元東京ガス会長の長女、和子が佐藤の次男、信二元運輸相の夫人だ。三木、佐藤両家は政界で反目していても、血脈で つながっていた。あのころ、
 「最後は女傑が動き、意に沿って佐藤がダメ押ししたのではないか」
 という声を聞いたが、確証はない。もしそうだとすれば、睦子はただ一人の女キングメーカーになる。(敬称略)=毎週土曜日掲載
==============
 岩見隆夫ホームページ http://mainichi.jp/opinion/column/iwami/
安西と森の関係は深い。

神 一行  『閨閥―特権階級の盛衰の系譜 (角川文庫) [文庫] 』角川書店; 改訂新版 (2002/03) pp.332-333
豪華絢爛たる最高閨閥を誇る安西家であるが、多くの名門家系がそうであったように、 この安西家とて三代前までさかのぼれば、ただの庶民にすぎなかった。
そして、この家族を語るときは必ず、戦前の新興財閥であった“森コンツェルン”との関係を抜きには語れない。
そもそも安西家と森家の祖先は千葉県興津(現勝浦市)の在で、道路一本へだてた隣同士だった。
後に安西正夫と森矗昶の長女満江が結婚し親族となるわけだが、その祖父にあたる安西八郎兵衛、森為吉は、勝浦の貧しい一漁師にすぎなかった。
明治の中頃この地方の漁師たちは海岸に流れつく海草の一種カジメを拾い集めるのが割りのいい仕事だった。
焼いてヨードと塩化カリをとるのだ。
日清、日露の両戦争でその需要が飛躍的に伸びた。
ヨードは傷病兵の治療に使われ塩化カリは火薬に必要だったからである。
これに目をつけた安西、森の両家は群小の“拾い屋”をまとめて総房水産株式会社を興した。
社長に森為吉、専務に安西直一、常務に森矗昶という布陣。
いわば両家の関係は隣同士の関係から共同事業主としての関係へと運命共同体として結びつくのだ。
これらをまとめて図にしてみる。
相関図
作成使用ツール:http://pipeo.jp/


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