1998年(平成10年)
野中に公明党を奪われた後、小沢の力は低下した。その後も連立に残ることをすすめる中曽根に対して、小沢は断る。小沢はその後、自由党を民主党と合流させるわけであるが、このときから考えはあったのだろうか。保保連合の動きは事実上ここで終わり。自社さの動きもさきがけは民主党へ、社会党は惨敗して終了したので、自民党一強になったわけではあるが、公明党なしでは不安定ではある。
平野 貞夫 『平成政治20年史 (幻冬舎新書) [新書]』幻冬舎 (2008/11) p.197
中曽根元首相と渡辺恒雄・読売新聞社社長が、小沢党首と会って、連立政権から離脱することをやめるよう説得したのである。小沢党首は返事をしない。その時期私は、中曽根元首相のブレーンと称する元東急エージェンシー会長の前野徹と、小沢党首と親しい清水信次・ライフ社長と、ある団体主催の忘年会で同席した。
連立の動きがあると渡邉恒雄が出てくるのだが、基本的にはその後ろに中曽根がいるとみればいい。
中曽根と小沢でとりあえずわかりやすくわけてみる。
中曽根
中曽根康弘
渡邉恒雄
前野徹
小沢
小沢一郎
清水信次
平野貞夫
ここから自由党は、少数野党として民主党に吸収されるまで不遇である。
要するに、この時点で中曽根とのパイプをとりあえず使わないという事。その後も大連立の動きがあるので、とりあえずは自民党内の中曽根の動きには乗らないということで、中曽根と関係が終わったわけではないので注意。
平野 貞夫 『平成政治20年史 (幻冬舎新書) [新書]』幻冬舎 (2008/11) p.197
後日、小沢党首は私を呼び「政策協議が実現しなければ、連立政権から離脱する。これから前野さんと口論してもよいが、清水さんとは喧嘩しないように」と、注意を受けた。
自由党は離脱、その連立離脱に反対し自民党との連立を続けたのが保守党(後に保守新党)である。
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