2014年2月25日火曜日

加藤の乱(影の総理)


 かつて、野中の腹心として動いていた加藤と山崎であったが、反旗を翻す。神の国発言、中川秀直のスキャンダル辞任、自民党は死に掛けていた。

NHK「永田町 権力の興亡」取材班 『 NHKスペシャル 証言ドキュメント_永田町 権力の興亡~1993-2009 [単行本] 』日本放送出版協会(2010/3/20) p.158
自民党の保守本流「宏池会」会長で、衆院で45人を率いる派閥の領袖だ。加藤は当時、ポスト森の最右翼とされていた。
ポスト森ということになってはいるが、そうはいかなかった。このとき既に、党内の派閥はどの派閥もかなりギクシャクした状態であり、野中が加藤を総理にあげるというのは難しい状態である。内閣不信任決議案を野党とやるとなると綻びがでる。池田、大平、鈴木、宮沢、加藤と派閥の流れがある宏池会だが、池田以外はどうも力がない人しかいないなと思う。派閥のイメージも散々である。まるで経世会の植民地の印象を受ける。

 加藤のHPにあるインタビューをみてみる。
http://www.katokoichi.org/ltt/ij_20010600-skn.html
ナゾの大反転を語る
文藝春秋「諸君!」
6月号からの転載

(略ry)
── つまり、「加藤の乱」のときも、自分が決起すれば宮澤さんは当然協力してくれるという信頼があったわけですね。

【加藤】 そうです。11月の政局は、自分が政権を取るということではなく、森政権に終止符を打つということが目的でしたから、その程度のことなら宮澤さんに賛成していただけると思ってたんですね。

── しかし、裏切られる。宮澤さんは11月の政局のときに、宏池会のベテラン・中堅議員たちに担ぎ上げられて「反加藤グループ」の象徴のような存在になりますね。 (略ry)


【加藤】 かなりネガティブでしたね。その3日まえに「山里会」(読売新聞社長の渡邉恒雄、政治評論家の中村慶一郎、早坂茂三らでつくる勉強会)で僕が発言したこと(いわゆる「倒閣宣言」)がメディアを騒がせるようになって、宮澤さんも新聞等にコメントしていましたが、それを読むとかなりきついコメントでしたから、あれっ、と思ったんですけど、実際にお会いしてみるとかなりきつい感じでしたね。
(略ry)
問題として、宏池会では、宮澤喜一元首相らは、堀内派を結成して離脱。野中の腹心である古賀が派閥を掌握した。宮澤としては森の倒閣には賛成だったということだろう。普通に部外者の目から見て、加藤のやろうとしていることは、倒閣ではなくて自民党をつぶすという事だ。これは明らかにはじめの目的と違ってきている。明らかに野党との連携(小沢、管)をやっているわけだから、そもそもそのまま自民党にいれるわけがなし、自民党にいれないなら、倒閣というものを超えている。それに、加藤はもし政権をとっても六ヶ月で終わると思ったと言っているがその言葉にも表れている通りこれは倒閣ではない。そんな動きに宮澤はさすがに乗らない。プロレスがブック破りの殴り合いに変わっている。リベラルの結集という言葉も同じだ。 中途半端だったと言っているが確かに中途半端だ。

 さらに野中は腹心の古賀を使う事になる。

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028267SA000/
権力の興亡「第02回[1996-2000] 漂流5年 “数”をめぐる攻防」 NHK 2009年11月2日(月) 午後10時00分~
野中は加藤山崎両派の切り崩しに全力を挙げた
造反する議員に対し選挙での自民党の公認剥奪や除名をちらつかせしめつけた

さらに野中は加藤派の幹部古賀誠と共に内部からの派閥の分断工作を図った
古賀も宏池会の人間であり、この時点で加藤派の内部の加藤に対する支持率は相当落ちている。ここでも先述の中途半端さがきいている。自民党をそのまま続ける気であるから、公認剥奪や除名に対して弱い。もしそのまま自民党を割るつもりでいるのなら効力があるわけではない。自民党を辞めるつもりなら、辞めさせるぞと言われたところでなんともないからだ。しかし自民党を割って新しく加藤を中心とした政権作りまでやる気は、加藤派と山崎派の不信任に同調する人間にはいなかったということである。もう一度書くが中途半端だ。どちらか一方に絞るべきだった。

 先述の加藤派の数に加えて山崎派の数をみてみる。

NHK「永田町 権力の興亡」取材班 『 NHKスペシャル 証言ドキュメント_永田町 権力の興亡~1993-2009 [単行本] 』日本放送出版協会(2010/3/20) p.160
その山崎は自分の派閥「近未来政治研究会」(通称山崎派)の19人を率いて、加藤の乱に加わった。
ここからみえる状況をまとめてみる。

加藤派45人
山崎派19人
計64人

 それに加え加藤と連絡をとっていた野党が動く。

NHK「永田町 権力の興亡」取材班 『 NHKスペシャル 証言ドキュメント_永田町 権力の興亡~1993-2009 [単行本] 』日本放送出版協会(2010/3/20) p.161
自由党を率いていた小沢にも、加藤らから打診があったという。
当時の小沢は自由党の少数野党、完全に空気である。主要なのは民主党だ。管や鳩山との連携をかなり加藤は強調していた。

NHK「永田町 権力の興亡」取材班 『 NHKスペシャル 証言ドキュメント_永田町 権力の興亡~1993-2009 [単行本] 』日本放送出版協会(2010/3/20) p.162当時民主党の幹事長だった管直人も、加藤と連絡を取り合っていた。
リベラルの結集が構想である。その後の小泉政権が失敗したらYKKトリオで新党をたてるつもりだったと山崎は言う。政治は常に不安定だなと感じる。

野党190人
森内閣不信任決議案必要最低数240人
野党+加藤山崎両派=254人
でそのままいけば数はクリアしている。

 最終的に加藤派・山崎派は、欠席した。不信任案は否決。

https://www.nhk-ondemand.jp/goods/G2011028267SA000/
権力の興亡「第02回[1996-2000] 漂流5年 “数”をめぐる攻防」 NHK 2009年11月2日(月) 午後10時00分~
 加藤の乱から20日後
戦い破れ加藤と苦い酒を飲んでいた山崎の元を突然小泉純一郎が訪ねてきた

山崎拓「突然小泉さんが現れてですね
YKKはあのー友情とですね 打算の二重奏であるという名目を言われました
友情で来たと皆さん思うだろうと そうじゃないんだ実は打算で来た
ということを彼は言いまして これからは俺の番だと」
ここで、加藤が総理になる道或いは派閥の領袖としての価値というのは終わった。小泉はここから総理になる。この加藤の乱自体が政局を重視した経世会というより自民党という負のイメージに繋がるわけで、加藤の乱は小泉の目標である経世会との対峙という理由に、もっと言えば追い風になった。
 野中の党内を支配する手腕はものすごいものだといえるが、このとき既に権力は別の人間に移っていた。

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