2014年2月4日火曜日

自社さ連立VS保保連合(政界の狙撃手VS大勲位、壊し屋)


ピンポイントにスナイプしていく野中広務。

第82代-第83代 内閣総理大臣 橋本龍太郎

任期     1996年1月11日 - 1998年7月30日


 沖縄特措法改正案を巡る動きからみるのがいいが、常に内在している小沢と中曽根の動きとみるとわかりやすい。後の大連立とかも同じようにみることができる。

1997年

中曽根康弘、亀井静香、平沼赳夫等志帥会と小沢一郎率いる新進党の動きに梶山が乗っかろうとする。自社さ体制をつくった亀井がすぐにこの流れに参加しようとするが、野中に牽制されている。野中は小沢と同じだ、似ているということを亀井が言うわけであるが、自社さを野中と一緒につくった亀井も同じようなものだろう。


松田 賢弥『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体 [単行本]』講談社 (2003/02)pp.44
 一方で、その小沢に手をさしのべ、特措法をきっかけに復権させようと仕掛けたのが梶山官房長官だった。背後には中曽根康弘元首相や亀井静香の存在が見え隠れしていて、彼らは「保守連合」「保守再編」を志向した「保保連合」派と呼ばれた。
 特措法が可決されたあと、一九九七年五月七日に私は改めて野中を訪ねた。
――小沢一郎と中曽根康弘元首相、梶山静六元官房長官の保保の蠢動を、野中さんはいったいどう感じているのか。
「中曽根はオレに言った。『私と小沢と梶山と野中さんが手を結べば大連合ができるんだ。ぜひ、やろう』とな。オレは断った。梶さんはそれに乗ったのではないか。梶さんの動きはいま、はじまったことではないが、おかしい。(総理への)色気もあるんだろう」
沖縄特措法改正案で、橋本龍太郎と小沢一郎が官邸で酒宴。橋本は小沢との会議で昔の女性スキャンダルを持ち出され、間が持たなかったとの事。それを与謝野馨と梶山静六がリークして煽る。与謝野と言えば小沢と近い人間。一緒に囲碁対局をよくやっていた。
 要するに、こういう流れをつくってやっていくというアピールと橋本をいびっているという事。梶山は内閣を支えるというより、その流れに乗ろうとしている。総理への色気があることは、明白でその後出馬している。タイプ的に言えば、総理を支えるタイプだと思う。

 野中広務、加藤紘一、山崎拓等は自社さで続けようとしている。表向きは弱者のために、反戦だとかを大義名分にする野中である。確かに、加藤、山崎にしろリベラルと言われる政治家であるし、社会党は左翼である事は事実ではある。だが、野中の目的は自民党の存続、もっと言えば、経世会の存続を軸にしていると私は思う。

1998年


松田 賢弥『闇将軍―野中広務と小沢一郎の正体 [単行本]』講談社 (2003/02)pp.60-61
「村上の発言は許せなかった。最初のうちは青木幹雄があいだに入ってきて『まあ、内部でもめるのはどうか。村上も本意じゃないように言っている』と言うので、ホコをおさめたかたちにしていた。が、七月六日にも村上が『恒久減税をやるのかやらないのか』とか、『(選挙後に)党三役も閣僚も替えたほうがいい』 と選挙で必死に闘っているときに内閣改造を口にしたり、党執行部の発言としては常軌を逸していた。だからオレは『(村上は)比例の二番にランクされている 人だが、私が幹事長だったら、十一日に自治省に候補取り消しの届けをする』と鹿児島で発言した(七月九日)。実際に、加藤幹事長や橋本にも連絡し、『仕方 がないだろう』という返事を得た。そして自治省とも連絡をとり、もし十一日午後五時までに村上からなんの言葉もなければ、名簿二位から村上をはずす用意を していた。加藤もそうとう怒っていた。結局、十一日午後三時ごろに村上から加藤幹事長へ『申し訳なかった』という電話が入り、名簿から削除することはやめた。
加藤幹事長とあるが、実際に動かしているのは野中幹事長代理である。ある意味で、この頃の加藤の微妙な立場が後の加藤の乱に繋がるわけではあるが、ずっと耐えてる小泉からすれば、同じように甘い汁をすっているようにみえる。
 ところで、いつもの組み合わせであるが中曽根康弘、亀井静香とくれば、村上正邦である。参院の法王と呼ばれ、全盛期の村上であるが野中はそれに対しても確実に潰している。思えば、この頃は加藤も野中の元でぶいぶい言わせている。小泉純一郎が村上に謝罪したのが1997年であるがまだこの頃は不遇だ。この頃のYKKだと小泉だけ不遇だが、逆に今考えると不思議だ。そのくらい小泉の爆発力はすごかったという事だ。

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